天ママStyle vol.100 “100号を記念して”
今回の原稿で100号になります。つまり10年間書き続けたことになります。改めて読み返し、ただ一言“変わってないなあ、ブレてないなあ”そして“色々あった10年間だったなあ~”
(その1)板橋区でやっていた「ときわ歯科」を売却し、歯科医師という自分を完結し、カッコイイ結末を迎えるために「天井久代デンタルクリニック」を銀座に開設しました。
(その2)銀座の診療所を自費のみの治療にするために桑田正博先生の門を叩き、再度勉強をやり直し、良い仕事をすることで歯科医師の本質を追及できたと思います。
(その3)あまりに個性的なホームページを作ってしまったために、銀座の集患には苦労しましたが“石の上にも10年”、現在ではこの個性的なホームページと私自身で患者さんを呼び寄せるまでになりました。
(その4)女性歯科医師がやるアカデミックなセミナーの先駆者となるため、自らを歯科業界に売り込み、義歯のセミナーを全国区で展開できるようになりましたが、これも銀座に開業したという実績が大きかったと思います。
(その5)この時期、日本歯科医師会で唯一の女性の国際渉外委員として日本代表を務め、FDIでは海外の女性歯科医師達と「女性歯科医師の会」を立ち上げて、この会の代表のミッシェルさんをFDI初の女性会長に推しました。
(その6)この10年の間に数名の歯科医師と多くのスタッフとの間の喜怒哀楽を忘れることができません。年に1回は書いてきたように思いますが、この経験があってこそ、現在の私になれたと、辞めていったスタッフ達に感謝しています。
(その7)歯科医師になり、トロント大学に留学していた娘を呼び寄せてから、彼女の波乱の10年間に付き合い、結果、娘は歯科医師を辞めてアメリカ人と結婚し、サンディエゴに住み自由を謳歌するまで母として、心配し、励ました母娘騒動期でした。
(その8)94歳で父が亡くなりました。父とそれ程仲良くやれていた訳ではありませんが、自分勝手で、小心者で、正義の味方の父を理解するより何より、私は父が好きでした。
常にアホなことを言ったり、人様を怒らせるのが得意でしたが、それは父のウイットであり、照れ隠しだったと思っています。
死に損ねた時など、正気を取り戻すなり、病院のベッドの上で「死んだはずだよ…お富さん…♪」と手を叩いて歌い始め、皆をあきれさせました。
成績優秀(東京医科歯科大卒)だった父が、家業を継ぐため田舎へ帰らざるを得なかった無念さを晴らさんがために頑張っている本当は跡継ぎの長女である私を父は認め、理解し、喜んでいてくれたようです。
父と娘…2人だけで話をしてみたかったです。
(その9)そして、この10年間、常に言い続けているのが、保険治療の問題点と対策です。
むし歯や歯周病を予防へシフトさせ、リハビリ補綴は保険外とした方が患者さんの歯科疾患に対するモチベーションが上がり、結果むし歯や歯周病が減少するのですが、保険治療に依存している歯科医はそろって反対します。
しかし現状は、人口の減少、むし歯の減少です。そのため、慌てて高齢者に目を向けて、入れ歯だ、介護医療だ、嚥下だと焦っていますが、この10年間で8020達成者は50%を越え、“削ってナンボ”の時代ではなくなりました。
口腔疾患が全身疾患の起因といわれ始めた昨今、“医学部歯学科”対策を考えねばならない時期に来ているように思います。
(その10)20年程前、高校生になったばかりの娘を連れてアフリカへ行きました。帰国して写真展をするとクインテッセンスの編集長の目に止まり、『患者さんの待合室』という雑誌に「アフリカの写真とそのコメント」のページを頂きました。
1年間掲載すると、次は「ジャンヌダルクは燃えている」という、ドタバタ訪問診療記を書くこととなり、3年間書き続けて、次は「本日休診」をさらに3年間書いたところで、日本歯科新聞に自ら売り込み、女性歯科医師の記事の先駆けとして「デンタル小町」を3年間書き続けてホッとしていると、コムネットの社長から“書かない?”と言われて10年…
全国に多くのファンを持ち、いくらかでも女性歯科医師の立場と私を認めていただけるようになった、もうすぐ70歳の私です。
私の30年周期「1期(1~30歳)」「2期(30~60歳)」「3期(60~90歳)」の「第3期の青春」の10年が終わろうとしています。
私はこの第3期の青春を大きく、自由に楽しくするために何をして、どのように手に入れるか模索中です。
この模索とチャレンジをこれからも書き続けていいものでしょうか。
読者の皆様のご意見を伺いたいと思います。